判例時報の山田論文を読んで

1 山田耕司裁判官の判例時報掲載論文「裁判員裁判の歩みとこれから」(全6回の連載予定)が仲間内で話題沸騰中である。第1回(2584号)は理念的な話が多かったせいか、それほど違和感はなかったが、第2回(2586号)は弁護士それも特に名古屋の弁護士を対象とした批判が中心であり、その内容も刑事弁護人の一人として容認し難いものがあった。
 私は、愛知県弁護士会の刑事弁護委員会の一員として山田論文で紹介されている「公判前円滑化チーム」にも参加していた。第2回の9頁で紹介されている弁護人の立場からの意見のうち、いくつかは私の発言と思われ、それが批判的にまとめられている。また、私自身、弁護人として公判前整理手続が3年規模で長期化した裁判員裁判対象事件をいくつか担当したこともある(おそらく山田裁判長の法廷も含まれている。)。それらは全面的に争いのある事件、死刑求刑が予想される事件など、いずれも非常に大変な事件であったが、整理手続が長期化したことは間違いない。このような経験から、山田論文の中で批判されている弁護人の一人が私であるという自覚はある。
 山田論文に対しては、名古屋の金岡繁裕弁護士が早々にご自身のブログで痛烈にこれを批判しているが、私は全くもって金岡弁護士の見解に同感である(そして、おそらく金岡弁護士も山田裁判官に批判されている弁護人の一人とお見受けする。)。
 いずれにせよ、判例時報という公刊物に名古屋の弁護士を対象とした批判が掲載された以上、刑事弁護人の一人として沈黙しているわけにはいかない。金岡弁護士は決して孤軍奮闘しているわけではない。以下、私自身が考えていることを披露することで、頂戴した批判に応えようと思う。

2 第1回「裁判員裁判が目指しているもの」(2584号)は、それほど違和感はなかった。「2 精密司法(調書裁判主義)から核心司法(公判中心主義)へ」(7頁)を読んで、私も、裁判員制度開始前、とくに公判前整理手続導入前の調書裁判がいかに酷いものであったかを思い出した。証拠開示は制度化されておらず、事実上、検察官の協力を求めるしかなかった。裁判官は、法廷にいる被告人そっちのけで被疑者の供述調書を読んでいた。お世辞でも、あの時代が良かったとは言えない。それに比べれば、当事者も裁判所も確かに客観的証拠を重視する傾向は強くなり、裁判官が被疑者の供述調書にしがみつく場面は減った。検察官が法廷で供述調書を再現するような尋問を始めると、それを制止しようとする裁判官も出てきた。裁判員制度開始前に比べれば、だいぶましになったという認識は持っている。
 そして、山田論文も指摘するとおり、裁判員制度施行15年で、いわば先祖返りの方向で運用が変わってきたのも事実である。特に検察官が手厚い立証をしがちであるという点は、私も同感である。罪体と情状の双方にいえることだが、何が事実認定に必要な証拠なのか(逆に何が意味のない証拠なのか)は経験を積んできた検察官であればよく理解しているはずだが、現実は手厚い立証が展開される。この意味のない証拠群(ノイズである)の採否・取調べに相当なエネルギーが注ぎ込まれ、これが裁判を難解にしているという点は無視できない。
 もう一点、「5 裁判員裁判のプラクティスの非裁判員事件への波及」(13頁)では、数年前にだいぶ議論され、結局うやむやになりつつある、ダブルスタンダード論にも触れられている。裁判員裁判でやれることは、裁判員裁判以外の裁判でも同じようにやるべきではないか、そこで別の基準を設けることは是か否かという議論である。山田論文は、例えば、被告人質問先行など積極的に運用すべきという見解のようであり、この点は私も同感である(そもそも被疑者調書が存在しなければこういった悩みはなくなるはずであり、それがベストである。)。ただし、被告人質問を先行する程度のことで「意識の高い弁護人」と評価するのは、いくら何でも甘すぎると思う。

3 さて、問題は第2回「公判前整理手続の円滑かつ的確に行うための方策」(2586号)である。山田論文に対する詳細な批判は金岡ブログに尽きている。私なりに分析すると、山田論文の根底にあるのは、弁護人の予定主張に対する過剰な期待(敢えて「誤解」とは書かない。)である。その期待が、整理手続序盤において①早々に弁護方針(予定主張の第一弾を想定)を明らかにすることができるはずなのにそれをしないとなり、中盤において②証拠開示を遂げなくても予定主張は出せるはずなのにそれを出さないとなり、終盤において③散々時間をかけた結果、ほとんど中身のない予定主張しか出てこないとなるわけである。
 しかし、これは山田裁判官独自の認識ではなく、実は多くの裁判官に共通する考えではないだろうか。私自身、いつも整理手続、打合せ期日に臨むたびにこう思うのである。裁判官は予定主張に期待し過ぎではないか。挙証責任は検察官にあるのだから、予定主張がひと言ふた言でも証拠意見さえ出れば審理に入ることは可能なのに、と。
 なぜ、多くの裁判官がこのような考え方になるのだろうか。理由は明白である。要するに、裁判官は、整理手続のうちに判決の見通しを立てておきたいのである。もちろん、まだ裁判員は決まってもいない。審理も始まっていないのに判決の見通しを立てるというのは、明らかにおかしい。しかし、裁判官には、裁判員が現れる前に入念な審理計画を立て、評議も決められた時間内に収まるように準備し、つつがなく裁判員裁判を終わらせる使命がある。いや、使命があると信じているのである。裁判官も公務員、しかも生真面目な公務員である以上、そのような安全運転を求めるのも無理はないと思う。端的に言えば、裁判官が最も喜ぶ予定主張とは、要するに弁論要旨そのものである。
 さて、裁判官がそのような辛い使命感から解放される方法が一つある。整理手続を担当する裁判官と公判を担当する裁判官を分けるのである。裁判官サイドからは、しばしば整理手続、審理、評議は一貫した方針でなされなければならないといった話を聞く。このうち、確かに審理と評議がちぐはぐではいけないので、両者は一貫している必要がある。しかし、整理手続はそこまで一貫していなくてもよいのではないか。どのような判決を書けば良いのかを考える余り、裁判官は整理手続の特に争点整理に慎重になってしまうのである。このことは当事者(検察官、弁護人)にとっても同様である。いくら整理手続における予定主張は乗り降り自由(あとで変更してもよい)と言われていても、整理手続を担当した裁判官がそのまま審理、評議も担当するとなると、整理手続における言動が裁判官の心証に事実上の影響を与えるのではないかと考え、どうしても慎重に言葉を選ぶことになる。これに対し、裁判官と整理手続限りの付き合いであれば、安心して乗り降りできるし、結果的に、その方が手続をスピーディに進められるはずである。
 裁判は生き物でありシナリオの決まっている演劇ではない。次に何が起きるのかという緊張感があるからこそ集中して審理に入ることができる。ときには想定外の出来事も起きるが、それは制度上予定されたことでもある。私自身、想定外の事態により審理計画とおりに進まず、結果的に裁判員の任務が増大したという経験が複数ある。例えば、論告の後に裁判官が介入して検察官に主張立証の再検討を促し、裁判員がさらに数ヶ月長く拘束された事件があった。また、検察官請求の重要証人が病気になったため尋問を予定どおり行うことができず、翌年、審理を再開したという事件もあった。いずれも殺人事件であり、特に前者は弁護人として全く受け入れ難いものであったが、いずれにせよ裁判員らは平然と任務をこなしており、計画どおり進行しなかったこと自体があとで問題視されたとは聞いていない。

4 前項で山田論文が指摘する予定主張に関する弁護人批判を整理手続のステージに沿って3つに分類してみた。以下、それぞれについて簡単に検討する。
 まず、①早々に弁護方針(予定主張の草案的なものを指すのであろう)を明らかにすることができるはずなのにそれをしない、という批判について。その背景には、予定主張に対する過剰な期待だけでなく、そもそも弁護人は被告人と接しているのだから、当然、被告人から事件のあらましを聞き、それに基づいて法律構成をし、弁護方針を示すことができるはずだ、という誤解が横たわっているように思われる。
 しかし、よく考えていただきたい。捜査段階において被疑者も弁護人も事件記録を一切見ることはできない。人間の記憶など、悪気はなくても、都合の良いように書き換えられる類の頼りないものである。手掛かりのない中で、依頼者の記憶だけを頼りに予定主張を組み立てることがいかに危険であるか、民事刑事を問わず弁護士であれば誰もがよく知っているはずである。
 起訴された後、弁護人と被告人は検察官請求証拠に接することになるが、それは検察官にとってのベストエビデンスである。それをいくら眺めていても、被告人が真っ黒に見えるだけであり、被告人の言い分を検討する上で必要十分な手掛かりになるとは思えない。
 結局、弁護人としては、検察官請求証拠だけでなくその他の様々な証拠、証拠開示手続を通じて得た証拠や弁護人が独自に収集した証拠などを被告人と一緒に検討しなければ、対外的公表に耐える予定主張を示すことはできない。弁護人の仕事は、決して被告人の不確かな記憶に基づく言い分を垂れ流すことではない。
 次に、②証拠開示を遂げなくても予定主張は出せるはずなのにそれを出さない、という批判について。①と同様、裁判官の予定主張に対する過剰な期待に加え、証拠開示が弁護活動の反対尋問にとってどれだけ重要かについての無理解が窺える。
 弁護人の反対尋問に対する裁判官や検察官の無理解を実感することは、実は日常茶飯事である。先日も、デジタル証拠(スマートフォンのデータ等)の開示が進まない整理手続案件について、私が、今や反対尋問の準備のためデジタル証拠は必須であるという趣旨の発言をしたところ、検察官から予定主張の準備ではなく反対尋問の準備のための証拠開示は不当だという反発を受け、裁判官もこれに同調した。私は、弁護活動の際には、まず最終弁論をイメージし、 どのような証拠関係になればそのような弁論ができるのかを考え、そのような証拠関係にするためには検察官提出証拠のどこを弾劾すればよいのかを考え、効果的な弾劾つまり反対尋問をするにはどのような証拠を用意すればよいのかを考えるのだから、持ち駒を増やすという点で証拠開示は弁護活動の生命線であるという趣旨の説明をしたが、あまり理解を得られなかったようである。警察や検察の筋書きに沿った供述録取書群をいくら眺めたところで効果的な弾劾の材料など見つかるはずがなく、今の時代、裁判を意識せずに作られたであろうデジタル証拠の検討は非常に重要である。裁判所が弁護人に対しそれを許さないというのは、もはや反対尋問をするなと言っているに等しく、到底受け入れられるものではない。
 なお、山田論文では取調べ録音録画の検討が終わらなければ予定主張に進めないという弁護人の態度も批判されている。しかし、少なくとも被告人供述に関しては、裁判所が早い段階から、本件では捜査段階の被告人供述は一切法廷に持ち込ませないと宣言すれば、この問題の相当部分は解決するはずである。
 最後に、③散々時間をかけた結果、ほとんど中身のない予定主張しか出てこない、という批判である。これは、先ほど述べたとおり、要するに、判決を作成するのに役に立つ予定主張が出てこないという指摘のように見える。
 しかし、この点も弁護活動の実態についての理解が乏しいように思える。弁護人は、ある程度の規模の事件であれば、検察官請求証拠だけでなく膨大な量の開示証拠(類型証拠、主張関連証拠、任意開示証拠)を検討することになるが、そのうちのほとんどは役に立たないと言ってよい。しかし、ほとんどが役に立たないからといって、弁護人は証拠開示手続について決して手抜きはできない。何らかの形で全ての開示証拠についてひと通り目を通さなければならない。たまに重要な証拠が混ざっていることも事実だからである。
 弁護人の役割は弾劾である。しかし、圧倒的な物量で迫ってくる検察官に対し、映画やドラマのように、毎回、都合よくアリバイ証人が出てくれたり決定的な証拠が空から降ってきたりするわけではない。上手くいかないことのほうが圧倒的に多い。
 相撲に例えると、刑事弁護とは、小兵力士が大きな横綱にぶつかっていくようなものである。横綱が勇足をしたとか、けたぐりが思いのほか功を奏したといった僥倖がなければ、そうそう弁護側の主張が認められるものではない。
 したがって、散々開示証拠を検討した挙句、薄っぺらい予定主張が示されることは往々にしてある。

5 私も公判前整理手続に時間がかかることが良いとは思わない。弁護人であれば、まだ仕事の一環として割り切って淡々とやっていくこともできる。しかし、被告人にとって、被告人という立場を長く強いられることは、さぞかし辛いことだろうと思う。
 金岡弁護士は、整理手続の長期化に対する3つの処方箋を紹介した。全面証拠開示、刑事施設における打合せ環境の改善、弁護人による強力な証拠蒐集手段の用意である。全くそのとおりであり、これらの改善提案を棚に上げておいて、一方的に弁護人だけを批判するのはアンフェアである。


 ちなみに、私自身が処方箋を3つ挙げるとすれば、次のとおりである。

(1) 裁判官と検察官の数を大幅に増やすべきである。弁護人サイドからすると、裁判官も検察官も、年中、裁判員裁判というビッグイベントに振り回され、そのイベントを中心にスケジュールを組んでいるように見える。しかし、一人あたりの手持ち事件数を大幅に減らし、一件一件に時間をかけて取り組むことができる環境になれば、この状況は変わるはずである。整理手続の担当裁判官と審理・評議の担当裁判官を分離することも可能になってくるであろう。個人的には、先進国と比べて貧弱な日本の司法予算を10倍に増やせば、日本の刑事司法が抱えている問題のかなりの部分は解決するのではないかと考えている。

(2) 裁判員裁判を担当する弁護人を厳選するというのはどうであろうか。裁判官と検察官が、年中、整理手続、裁判員裁判を経験し、相当な場数を踏んでいるのに対し、弁護人の方は初心者マークか年に1回も担当したことのない人が非常に多く、裁判官、検察官と対等にやり合える人が少ないように思える。一人の弁護士が何十件も整理手続、裁判員裁判を経験することによって、様々な場面で自信をもって手続に向き合うことができ、それは最終的に円滑な整理手続の実現につながるはずである。

(3) 全ての刑事裁判官はぜひ弁護人の仕事を経験すべきである。今回、山田論文に接し、裁判官と弁護人の相互理解はこれほどまでも難しいものかと少し驚いた。相当規模の否認事件の弁護人として、被告人と向き合いながら全力で弁護活動をした経験のある裁判官であれば、どのような論文を書いたであろうか。修習期間が減り、法曹一元も実現せず、裁判官と弁護人の相互交流も活発とはいえない昨今、もう少し腹を割って話ができればよいのに、とも思った。

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