身体拘束からの解放を目指して(2)

 前回に引き続き、身体拘束からの解放を目指して、というタイトルで書きます。今回は勾留延長です。

 弁護人として勾留された被疑者と接見すると、よく「自分はいつまでここにいなければならないのか」と聞かれます。当然です。狭い房に閉じ込められ、四六時中監視された状態で、取調室との往復の苛酷な日々が続くことを考えれば、「この状態がいつまで続くのか」ということが被疑者の最大の関心事の一つだからです。

 刑事訴訟法は「勾留の請求をした日から10日以内に公訴を提起しないときは、検察官は、直ちに被疑者を釈放しなければならない」と定めています(208条1項)。つまり、不起訴で釈放されるか、起訴されて勾留が続くか、直ぐに保釈等の請求ができるかは、勾留請求日を1日目とカウントして10日以内に決まるということです。10日間というのは、何事もスピーディに進んでいく現代社会においては、かなり長めの日数ですが、いずれにせよ、戦後の刑事訴訟法は、10日間を原則的な勾留日数の上限とし、その規定が現在も変わらず続いているということになります。

 しかし、被疑者との接見で、「起訴されるかどうか原則10日間で決まります。起訴されたら保釈請求しましょう。」などと安易に答えることはできないという現実があります。勾留延長があるからです。刑事訴訟法は「裁判官は、やむを得ない事由があると認めるときは、検察官の請求により、前項の期間を延長することができる。この期間の延長は、通じて10日を超えることができない。」と定めています(208条2項)。要するに、やむを得ない事由があるときは、10日間プラス10日間、起訴か不起訴かが決まるまで最大20日間勾留されることがある、ということです。判例上「やむを得ない事由」とは、事案の複雑困難、あるいは証拠収集の遅延若しくは困難等により勾留期間を延長して更に取調べをするのでなければ、起訴・不起訴の決定をすることが困難な場合(最高裁昭和37年7月3日判決)とされています。「遅延」や「困難」ということは、通常はそのような事態が発生しないことを前提とした表現でしょうから、これだけ読むと、かなり厳格な解釈といえそうです。通常の日常用語としても、「やむを得ない」とは、手を尽くしたが他にどうすることもできないという意味ですから、「やむを得ない」つまり勾留延長が認められるのは、かなり限定された場合を指しているはずです。

 ところが、実務では、この勾留延長が、むしろ原則的ではないかと思えるほど、あっさり認められる傾向にあります。経験上、一人で単純な事実関係の事件を起こしたと疑われている事件、例えば覚せい剤の自己使用などは10日間の勾留で起訴されることが多いようですが、それ以外に、被害者がいたり、共犯者がいたり、その他関係者がいるといった事件の場合、あっさり勾留延長が認められてしまうという実感です。その昔、警察署の留置施設(代用監獄)で接見の受付をしているとき、ホワイトボードのカレンダーに「小満」と「大満」という文字が並んでいるのを見たことがあります。日数的に考えて、「小満」とは勾留請求日から10日目、「大満」とは勾留請求日から20日目のことを意味するようです。「満」というのは満期のことをいうようです。捜査機関は、勾留当初から、相当数の事件について、「大満」まで、つまり20日間勾留するつもりで捜査のスケジュールを組んでいるのではないかと勘ぐってしまいます。その背景には、容易に勾留延長を認めてくれる裁判官に対する捜査機関の大きな信頼があるのでしょう。

 もちろん、不当な勾留延長決定に対しては、弁護人として準抗告を申し立てます。しかし、この不服申立はなかなか認められません。経験上、比較的単純な事件で、共犯者がおらず、被疑者が事実関係を認めているという事件で検察官が勾留延長請求したといった場合に、延長決定が覆ったり、延長期間が少し短くなったりする程度です。大多数の準抗告棄却決定は、被疑者と共犯者の供述が食い違っている、関係者が多数いるため事情聴取が終わっていない等々、捜査の必要性ばかりが強調されます。これでは、10日間もの勾留を終えて、なお被疑者を勾留してまで捜査しなければ、本当に起訴・不起訴の決定をすることができないのか。仮に捜査を続けるとして、なお被疑者を勾留しなければ捜査できないようなことなのかといった点について、真正面から答えたことにはならないと思います。つまり、このような決定からは「その捜査や起訴・不起訴の判断は、本当に、なお被疑者を勾留しておかなければできないことなのか」という視点が欠けていると思います。

 私は、科学技術を駆使した情報収集が飛躍的に進歩した現代社会においては、実は、当たり前のように認められている原則10日間の勾留でさえ長過ぎるのではないかと考えています。原則3日以内、長くて7日程度もあれば十分ではないかと思います。刑事訴訟法が制定された1948年(昭和23年)から70年近く経っているのですから、物的証拠の収集、差し押えた物品の分析などは、IT機器を駆使して進めれば、ほとんどの事件について、それほど大量な時間を要しないはずです。関係各所への照会も、通信事情が大幅に改善されてきた現代においては、新幹線でさえ存在しなかった昭和23年当時に比べれば、圧倒的にスピーディに処理できるはずです。被害者その他関係者からの事情聴取も、携帯、メール、テレビ会議システム、スカイプなど便利なツールが何でもある現代においては、2〜3日もあれば、だいたいの聴取はできるのですから。

 そして、被疑者(共犯者を含む)の取調べも、短時間で一通りの質疑応答を終えることは十分可能です。その供述を保存しておきたければ録音録画すればよいし、被疑者が黙秘権を行使したら、その時点で「被疑者の供述はない」ということで次に進めばよいのです。そうせずに、何日も何日も、毎日2〜3時間ずつ、同じような内容の取調べを繰り返すというのは、取調べというより、もはや洗脳であり、結局、捜査機関に都合のよい供述を強要することにつながります。よく「被疑者取調未了」を理由として、勾留延長が認められますが、裁判官は、その事件で、一体どれだけ捜査機関が中味のある被疑者取調べをやってきたのか、もっと慎重に記録を検討してほしいと思います。

 このような意見に対しては、現代社会は複雑だから捜査にも相応な時間が必要だ、10日では足りないという反論があるかも知れません。しかし、そのようなときには、原点に立ち返ってほしいのです。すなわち、「その捜査や起訴・不起訴の判断は、本当に、なお被疑者を勾留しておかなければできないことなのですか」と。

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