なぜ無実の人が自白するのか(3)

 今日、足利事件の菅家利和さんが釈放され、ニュースでも大きく取り上げられました。私は、この事件の弁護人ではありませんが、学生時代、足利事件に関心を持ち、まだ第一審が続いていた頃、当時のDNA鑑定について勉強したり、栃木を訪問したりしたことがあります。第一審の判決も傍聴しました。裁判官が、菅家さんに対し、非常に強い憤りを込めた口調で「無期懲役に処する」と判決を言い渡したときのことを、今でも生々しく覚えています。

 あの裁判官の確信はどこにあったのでしょうか。やはり、第一にはDNA鑑定でしょう。1000人のうちの1.2人という「出現頻度」を示され、今、法廷の目の前にいる人がそういう確率で選ばれた人間だと思い込めば、他の可能性を見出すことは難しかった。当時の科学技術では精一杯だった。そういう同情的な意見もあるでしょう。

 しかし、私は実はそう思っていません。他の多くの冤罪事件と同様、菅家さんはしっかり自白していました。そして、自白している状態は第一審の途中まで続きました。しかし、自白の内容をよく見れば、かなり不可解で現実味のない自白でした。裁判官は、ここでおかしいと気づくべきだったと思います。真犯人がこのようなおかしな自白をするはずがない。何かがおかしい。もしかして人違いではないのか。気づくきっかけとなる信号はたくさんあったと思います。ここで、無実の人も自白することがある、という謙虚な物の見方ができれば、DNA鑑定を見る目も違っていたはずです。当時から、科警研のDNA鑑定に重大な問題(欠陥)があるという指摘はあったのです。裁判官がもっと自白に対して謙虚であれば、あれほどDNA鑑定を絶対視しなかったと思います。

 結局、裁判官は、DNA鑑定だけでなく、自白にも引きずられてしまったのでしょう。ここで、菅家さんが取調べだけでなく、法廷でも自白したことに注目してほしいと思います。一度認めてしまった「罪」を法廷でくつがえすのでさえ、大変な勇気とエネルギーがいるのです。私たちは、人間がいとも簡単に自白してしまうという恐ろしい真実を、もっと直視すべきです。そうしなければ、誤った自白による冤罪はなくならないでしょう。裁判員制度が始まった今、足利事件を教訓に、このような問題意識が広がってほしいと願っています。

 ところで、再審で無罪となる前の菅家さんの釈放は、極めて異例なことでした。日弁連は、本日さっそく「検察官が再審開始を容認し、菅家氏の身柄を解放したことについては高く評価する」という会長談話を発表しました。しかし、私は、もっと厳しい内容の会長談話を期待していただけにがっかりしました。釈放は当然のことです。今まで一人の人間を永年にわたって散々苦しめてきた検察官に対し、釈放したから「高く評価する」というのは、いかがなものかと思います。再鑑定を認めて、もっと早く釈放する機会は何度もあったはずです。日弁連は、これから捜査当局と、それ以上に裁判所に対し、猛省を促すべきだと思います。冤罪は、被告人、被害者の双方にとって究極の人災であり、しかも可能な限り減らすことができるのですから。

 アメリカにおいては、DNA鑑定で冤罪を晴らした人がたくさんいます。日本の捜査当局と裁判所も、過去の誤りを謙虚に見つめ直してほしいと思います。

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