高等裁判所という所

 日本の裁判は三審制であるとよく言われます。それは一応正しいのですが、最高裁判所が基本的に事実関係の争いに立ち入らないことからすると、ほとんどの事件で重要なのは、地方裁判所(地裁・第一審)と高等裁判所(高裁・第二審)です。三審制と言っても、実際には二審制に近いと思います。

 高裁の裁判官は、通常、地裁の裁判官より、年齢や裁判官としてのキャリアはひと回り上です。前に地裁にいた裁判官が高裁に転勤することはよくありますし、逆もあります。基本的に民事も刑事も1つの事件を3名の裁判官で担当します。

 さて、地裁よりベテランの裁判官が担当するのだから、高裁ではさぞかし良い裁判をやってくれるのだろうと思うと、必ずしもそうではない現実があります。これまで弁護士として何度となく高裁の事件を弁護しましたが、私は、どちらかと言うと、高裁に対してあまり良い印象を持っていません。民事事件の場合が多いのですが、地裁で時間を費やして様々な角度から審理して出た判決を、高裁がいとも簡単に覆すという経験を何度もしているからです。もちろん、こちら側が地裁で敗訴した事件を高裁が勝たせてくれたという経験もあり、そのときは素直に喜んでしまうのですが、しかし、そのような個別事件の勝ち負けとは別に、高裁という所が抱えている問題点を感じずにはいられないのです。

 一つの問題は、高裁の裁判官、特に裁判長が一律にベテラン揃いというところにあるように思います。高裁の裁判長は、ほとんどが60歳位の人で、裁判官としてのキャリアも三十数年に及ぶのが通常です。そして、裁判長は3人の裁判官の中でも圧倒的な力を持っていると言われています。両隣の裁判官から見れば、裁判長は大先輩であり上司でもあるのですから、当然でしょう。事件の方向性を決める際、裁判長の意向が最も強く反映されるのだろうと推察します。

 ところで、物事を素直に謙虚に柔軟に見据える能力というのは個人差があると思います。人が裁判をやる以上、この個人差はあって当然でしょう。比較的年配の人で瑞々しい感性を持った人もいれば、若いのに凝り固まった人もいます。しかし、個人的な感想ですが、往々にして、人は年齢を重ねてキャリアを積めば積むほど、軌道修正が難しくなる傾向にあると思います。その意味で、60歳位で相当なキャリアをもった人達だけを揃えて高裁の裁判長に据え、その人達だけが非常に重要な二審制の最後を任されるというのは、片寄ったシステムではないでしょうか。私は、高裁の裁判長のポストは、年齢に関係なく、もっと多様な人材に任せるべきだと思います。

 もう一つの問題は、極端な書面審理にあると思います。特に刑事事件の場合、この問題がはっきりと現れます。裁判員制度が始まり、地裁では今までのような書面に頼る裁判を全面的に見直そうという動きがあります。できるだけ法廷で証人に事実を語ってもらい、その場で裁判官・裁判員に考えてもらうのです。まだまだ不十分ですが、この動きは地裁の裁判に良い影響を与えていると思います。

 ところが、高裁の刑事事件では、相変わらず地裁の記録(書面)を読んで、いつの間にか裁判官室の中で方向性が決められています。その後に開かれる法廷は、ほとんど儀式に過ぎません。高裁の裁判官は、地裁がどんどん変わっていくのに対し、自分達は相変わらずであることについて、あまり疑問を感じていないように見えます。自分達は法律に従って粛々と審理をしていると自信を持っているのでしょう。しかし、証人の口から語られる生々しい言葉やその表情・動作等に比べ、素っ気ない書面から得られる情報量はいかに少ないことでしょう。私は、高裁の裁判官が、なぜ書面だけを読んで自信持って判決を書くことができるのか、もっと自分の目と耳で知りたい情報はないのか、いつも不思議に思っています。今、地裁の最前線にいる裁判官が高裁の裁判長になれば、今のような極端な書面審理は少しは変わるのかも知れませんが、しばらく時間がかかりそうです。

 高裁について、私はこのようなことを考えています。皆さんにも、民事・刑事を問わず、もっと高裁に関心を持って、このままで良いのかという視点から考えていただきたいと思います。

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