考査委員の大学教授が教え子に司法試験の問題を漏洩したというニュースがありました。司法試験委員会が国家公務員法違反(守秘義務違反)で教授を告発し、刑事事件に発展するようです。
報道された内容が事実であれば非常に残念な事件ですが、試験問題を作成する側と試験を受ける側に接触する機会がある以上、いつでもどこでも起こり得る、誘惑的で単純な事件とも言えます。再発防止のために何ができるのか、しばらく議論になりそうです。
ところで、報道によると、この事件、別の考査委員が、他の受験者と違って答案の内容が高度なため不審に思い、漏洩を指摘したことから発覚したそうです。数ある答案の中から、本当にそのような文章の質的違いを見抜くことができるものだろうかと不思議に感じられる方がいるかも知れませんが、私は、それは十分に可能なことだと思います。以下は私見ですが、少し書いてみます。
私も、法科大学院で学生が提出したレポートを読む機会がありますが、同じ課題について書かれた文章を数十枚単位で読むとき、読み手は、その数十枚単位の文章の中に存在する共通項を容易に発見することができます。そして、共通項に概ね納まった文章が全体の大多数を占め、それらはあまり印象に残りません。大きく加点も減点もできないニュートラルな文章ともいえます。身も蓋もない話ですが、筆記試験というものは、こういう無難な文章(=大きく減点されない文章)を揃えることが求められているように思えます。
他方、共通項から外れた文章は実によく目立ちます。特に優れた方向に共通項から外れた文章は、じっくり読みたくなるものです。文章の作成者がどのような考えの持ち主で、どのような思考過程をたどったのか、読み手が関心を抱くからです。読み手は、作成者の思考を追体験したいのです。追体験を通じて「なるほど」と思わず膝を打つ場合もあります。追体験というプロセスを経るからこそ、自分で考えて書いた文章かそうでない文章かを見分けることは、実は容易です。したがって、例えば、いわゆるコピペ・レポートは、コピペの部分だけが「あぶり出し」のように浮き出て見えます。今回の受験生の答案についても、他の受験生の答案との間に、また、自身の憲法とその他の科目との間に大きな質的違いが認められたのではないかと想像します。
私の知る限り、昔も今も、司法試験の論文式試験は完璧な答案を要求する試験ではなく、受験生の論理的思考を測る試験のはずです。受験生の方々には、問題文をよく読んで、自分の頭で考え、自分の日本語で文章を作成するという当たり前のことを再確認してほしいと思います。
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