2017年6月15日は日本の刑事司法にとってターニングポイントというべき日となりました。「共謀罪」法が成立したからです。今の国会情勢においては法の成立は時間の問題だろうと思っていましたが、いざその日がやってくると、刑事司法に携わる一人として、何ともやるせない気持ちになります。
「犯罪を計画段階で処罰する『共謀罪』の構成要件を改め『テロ等準備罪』を新設する改正組織犯罪処罰法が成立した」というと、どこか遠い国の話であり、自分には関係のないことだと思えてきます。テロリズム集団などの「組織的犯罪集団」が処罰の対象になるのだから、大いに結構なことではないかという感覚かも知れません。実際に、犯罪と関わりのない多くの「一般市民」にとっては関係のない話と言えるでしょう。この法案に反対する識者からは、「一般市民」も無関係ではないという意見がありました。しかし、そうは言っても、2017年現在、多くの「一般市民」にとっては、自分に関係するかも知れないと想像することは困難ですし、それは正常な感覚だと思います。
それにもかかわらず、「共謀罪」法の成立がターニングポイントであると考える理由は二つあります。
一つは、これまでの刑法の解釈を大きく歪める可能性があるということです。刑罰を受けるのは、原則として、実際に犯罪を実行した場合です。これを「既遂」といいます。しかし、一定の重さの犯罪については、「既遂」だけでなく、犯罪の実行に着手はしたが結果が発生しなかったという「未遂」も処罰します。この他、ごく一部の犯罪については、「未遂」の前段階の「予備」も処罰されます。しかし、犯罪が実行されなかったのに「予備」だけで処罰されるというのは、非常に稀なことです。
「既遂」と「未遂」しか処罰されないというのは、犯罪から「一般市民」を守るという観点からすれば、いささか物足りないようにも見えます。もっと早い段階から処罰すれば、犯罪の芽を摘むことができるのではないか、という考えです。しかし、そうすると、何が処罰されて何が処罰されないのかが不明確となり、かえって「一般市民」の自由を脅かすことにつながります。例えば、包丁で人を刺し殺すのは処罰の対象として明確です(既遂)。また、包丁を振り回して襲いかかるのも明確です(未遂)。ところが、包丁を購入する行為や、包丁を購入するお金をATMで払い戻す行為は、それが犯罪と結びつく行為かどうか、一見しただけでは分かりません。その昔、時の権力者が恣意的に何が犯罪で何が刑罰かを決めていた時代もありましたが、人類は長年にわたって知恵を絞り、時には血を流しながら、ようやく誰が見ても犯罪とわかる行為だけを処罰するというルールを作りました。「共謀罪」法は、刑法の数多くの犯罪について、このルールを変更し、曖昧模糊とした「予備」的行為を広く処罰の対象とする異質な刑罰法規です。
もう一つは、これが今後、捜査の権限を拡大する動機づけとなる可能性があることです。捜査機関は、ある人物を「共謀罪」で有罪にするためには、十分に証拠を集める必要があります。ところが、「共謀罪」で捜査の対象とされるのは、例えば、組織犯罪らしき行為を計画するために集まった、あるいは、組織犯罪に使われるかも知れない資金を動かした、といった行為です。しかし、これらの行為は「既遂」「未遂」とは異なり、それだけでは犯罪とされない行為であることが通常です。
そうすると、「既遂」「未遂」と比べ、「共謀罪」の証明は、かなり困難なものになると予想されます。せっかく「共謀罪」を新設したのに、証明のハードルが高くて使い物にならない。もったいない。私は、近い将来、そのような声が、捜査機関、捜査機関を支持する研究者、政治家などからあがってくるだろうと予想します。すると、もっと捜査権限を拡大せよという話となり、盗聴(通信傍受)の拡大、GPSの活用、監視カメラの増設、DNAデータベースの強化といった方向に進むことでしょう。また、この「共謀罪」法、今後の社会情勢によっては、対象となる団体を拡大し、戦前の治安維持法のような大改正を経て、現実に「一般市民」の自由を脅かす法律に化ける可能性があります。捜査機関に監視されながら、お上の意向を忖度し、当たり障りのない意見しか言わない社会が果たして健全か、特に若い世代の方々には、今のうちから真剣に考えてほしいと思います。
「特定秘密保護法」「集団的自衛権」「共謀罪」という一連の流れを目の当たりにすると、社会はどんどん息苦しくなっているにもかかわらず、私たちがそのことに随分と鈍感になったことを思い知ります。おそらく、この傾向は当分続くでしょう。しかし、法律家の一人として、「共謀罪」法が成立した今日、この法律に反対の意見を表明したという記録だけは残しておきたいと思います。