年末年始、何冊かの本を読みました。そのうちの一冊がアビー・スミス&モンロー・フリードマン編著(村岡啓一監訳)『なんで,「あんな奴ら」の弁護ができるのか?(原題”How Can You Represent Those People?”)』(現代人文社)です。アメリカを中心とする著名な刑事弁護人16名が、それぞれ標題の問いに答える形で寄せたエッセイを一冊にまとめたものです。
刑事弁護に携わる弁護士は、必ずと言ってよいほど、標題の問いを投げかけられた経験があるはずです。私も、これまで数えきれないほど、同様の問いを投げかけられてきました。同業者以外の方から「あんな奴ら、いくら弁護しても無駄でしょう。」と諭され、ときには同業者から「あんな奴らばかりと付き合っていると疲れるでしょう。」と同情されることもあります。問われるたびに、刑事弁護とは何かを根気よく説明してきたつもりですが、聞く耳を持たない人に対しては適当にはぐらかすこともありました。何にせよ、この問いに対しては、自分なりに答えを持ち合わせているつもりですが、なかなか刑事弁護人以外には容易に理解することのできない世界のようです。
さて、世界の一流の刑事弁護人は、この問いにどう答えるのでしょうか。ワクワクしながら読み進めました。ある弁護士は、権力は必ず濫用するものだからこれに抗う弁護人が必要なのだと使命を説きます。ある弁護士は、貧困や差別を受けた被告人を弁護する原動力は、自分自身が過去に受けた貧困や差別にあると述べます。16名の考えは多種多様で、決して一枚岩ではありませんが、それでも共通項はあると思いました。それは、目の前にいる依頼者(被疑者・被告人)を知識と経験を総動員して「熱心に」弁護し、そのこと自体に誇りを持っているということです。この本には、日頃、自分が漠然と感じながら、なかなか言葉で表現できなかった(表現するのを怠っていただけかも知れません。)ことが見事に綴られていました。
本を読みながら、気づくと自分自身の刑事弁護に対する向き合い方について振り返っていました。私は、学生時代にゼミで名張毒ぶどう酒事件などについて勉強する機会があり、冤罪に苦しむ人の弁護をしたいと思い、それが弁護士を目指すスタートラインでした。冤罪とは、無実なのに犯人とされることですから、それが圧倒的な不正義であることは刑事弁護人以外の人にも容易に理解できます。従って、冤罪に苦しむ人の弁護をしたいと言っている弁護士に対し、「なんであんな奴らの弁護ができるのか?」と非難する人はいないはずです。冤罪に苦しむ人の弁護というのは、一般に理解を得やすい話であり、ただの学生に過ぎなかった私に、そのような素朴な感情が沸いてきたというのは、格別不思議なことではなかったと思います。
しかし、その後、弁護士になってから、学生時代のスタートラインは修正を余儀なくされます。より正確には、掲げる理念は変わらないにしても、事はそう単純なものではないことが分かったという意味です。刑事弁護をやればやるほど、そもそも真実を見抜くことができるなどという発想がいかにおこがましいのかが分かり、「冤罪」などという言葉を軽々しく使わなくなりました。私たち弁護人にできることは、証拠とじっくり向き合い、証拠から裏づけられる事実が何かを考え抜くことだけです。ここが弁護人の腕の見せどころであり、依頼者の説明が一見理解し難いものであったとしても、まずはそれと向き合い、説明と証拠とを「熱心に」突き合わせる作業を続けなければなりません。そして、その結果、合理的疑いを超える証明がなされなければ無罪とされるべきであり、その結果、依頼者は「冤罪」だったということになります。この過程で、真実という言葉はどこにも出てきません。
ところが、このような過程を経て、なお「冤罪」と呼ぶにふさわしい事件に出会うことは、それほど多くありません。多くは、弁護人の立場からしても、有罪となってもやむなしという事件です。では、そのような事件については、弁護する意味はないのでしょうか。あるいは「冤罪」事件の弁護に比べて価値が低いのでしょうか。学生時代の自分であったら、そのように考えていたかも知れませんが、現在はそのようなことはないと確信しています。
一つは、犯罪に及んだからと言って、どのような刑罰でも甘んじて受けなければならないものではないことです。ひとたび国から被疑者・被告人として処罰の対象とされれば、どのような人であっても例外なく圧倒的に無力です。そのような中、捜査・裁判を通じて、弁護人以外に被疑者・被告人を弁護できる人はいません。十分な情状弁護を受けることができず、その結果、重い刑罰を受けることになったとしたら、「冤罪」とは言わないまでも一種の「誤判」と言えます。そして、これは全ての事件に当てはまることです。そうである以上、刑事弁護人は、どのような事件であっても、等しく「熱心な」弁護をしなければなりません。
もう一つ、手続の問題があります。刑事訴訟法をはじめとする刑事手続法令はかなり複雑で、被疑者・被告人がこれを理解し単独で権利行使することはほぼ不可能です。他方、裁判官や検察官は、当然ながら手続をよく知っています。しかし、検察官は公益の代表者とはいえ訴追する立場ですし、裁判官も中立な判断者という立場ですから、いずれも被疑者・被告人の権利行使を後押しするにしても限界があります。刑事手続法令を駆使し、被疑者・被告人のために臆することなく権利行使できるのは、弁護人だけです。刑事手続法令の中には実に多くの権利が認められています。それにもかかわらず、これを行使することなく、その結果、重い刑罰を受けることになったとしたら、これも一種の「誤判」と言えます。手続の問題も、情状弁護と同様、全ての事件に当てはまることです。そうである以上、刑事弁護人は、どのような事件であっても、適正手続保障のため、等しく「熱心な」権利行使をしなければなりません。
このように「冤罪」の弁護だけでなく、情状弁護や適正手続保障も「なんであんな奴らの弁護ができるのか?」という問いに対する答えになると思います。しかし、根本にはやはり、国から被疑者・被告人として処罰の対象とされた圧倒的に無力な人の力になりたい、という素朴な感情があります。思えば、自分は、昔から常に少数派に与する傾向がありました。年末年始は、この本を読みながら、自分の歩んできた道についても考えました。
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